ここには豊かな土地と緑と笑顔がある
父の遺言によりウガンダのビクトリア湖に浮かぶBussi島のJali村に 640エーカーの土地を譲り受けたことを知ったMoses Kibuuka Muwangaが、初めてその地を踏んだのは1995年のことだった。
木製のカヌーを漕ぎ、パピルスが群生する密林の狭間を掻き分けてようやく辿り着いたJali村でMosesの眼前に現れたのは、赤い土と深い森の緑、そしてたわわに実る多種多様な果実。村は美しい自然に囲まれているものの、約300人の住民のほとんどが不法居住で、貧困と栄養失調が蔓延し、平均寿命は42歳と非常に厳しい生活環境にあった。しかし、この土地には豊富な農産資源が存在しており、パイナップルやマンゴー、バナナなどがほぼ自生の状態で所狭しと実っているのである。
Muwanga兄弟は、これらの資源を活かし、住民の生活基盤と収入源をつくるため、住民主体の「JALI ORGANIC PROJECT」を立ち上げた。ここから兄弟の挑戦は始まった。
プロジェクトの当面の目標は慢性的な貧困の解消、豊富な農業資源の有効活用、人材の育成、住民の社会的、経済的な発展。医療・衛生施設が整えば救える命があり、教育環境が整えば自ら道を切り拓ける。それまでは仲買人の搾取により、信じられないほどの低価格で買い取られ、売れ残ったものは廃棄されるがままであった作物を5倍から7倍の価格で住民たちから買い取り、ドライフルーツに加工し、海外でマーケットを拓こうと考えたのである。
彼らはまず清潔な水を確保するため井戸を掘り、加工工場と乾燥機を導入し、現地でのドライフルーツの製造を始めた。
商売はここからが勝負である。つまり売らなければ意味がない。しかしその後思うように海外のマーケットを拓くことができず、長らく足踏みの状態が続き月日は流れ、FAR EASTがこの島に足を運ぶまでに、プロジェクト開始から既に15年が経っていた。
2010 年夏。我々FAR EASTは初めてウガンダのビクトリア湖に浮かぶBussi 島 Jali 村 へ足を踏み入れた。島の対岸から木製のカヌーを漕ぎ、蓮の華が咲き乱れパピルスが覆い被さるように生い茂る水面を滑るように進み、島の入り口 Jali 村 の船着場に着く。
村の子供たちは初めて見る日本人に興味津々で、話しかけると喜んだり、恥ずかしがって黙り込んだりしていた。島全体は赤土と緑に覆われ、パイナップルやバナナ、コーヒーなど多種多様な植物が豊かに自生しており、その勢いからこの土壌の豊かさや特別な生態系が感じられた。住民の温かさと豊かな自然を目の当たりにし、「この島には金や物以外、何でもある」と実感したのである。
Endeavor 2010
我々は諦めなくなり
船着場から30分ほど歩くと、村人たちが建てたレンガ工場が景色に溶け込むように佇んでいる。中では村の男女が活き活きと作業をしており、15人の子供を育てるJaneの姿が印象的だ。彼女は孤児となった甥姪も育てており、こうした話はJali村では珍しくない。工場の設備は簡素ながらも最低条件は備えており当面の課題は、設備ではなく他にありそうだ。2ヶ月前、初めて届いたサンプルの品質は、日本市場で通用するには遠く及ばず、殊に衛生管理、品質管理、保存技術、包装技術に多くの問題点が見られた。ウガンダ国内の市場では、決して求められないスペックが日本市場で は当たり前に要求される。日本で通用する品質に到達できれば、つまりそれは国際水準である。
何より有難いのは、我々が諦めなくなり、考えるようになったことだ。
Change 2011
考えるようになった
見知らぬ東洋人が突然現れて、彼らが必要と感じないことを必要だと言い、あれが駄目これが駄目と連発し改善を迫る訳だが、それでも可能性を信じ、諦めることなく、文句一つ言わずに要求に応えようとする彼らの進歩には目を見張るものがあった。異物混入を防ぐための改築工事や作業手順の見直し、包装資材の変更、脱酸素剤の使用、保存技術や品質管理といった未経験の分野にも挑戦し続けた。彼らの努力の結果、わずか1年足らずで日本のハイエンド市場に通用するレベルに到達し、予想を超える成果を上げたのである。
Chance 2012
40日間興奮して眠れなかったよ
2012 年 2 月。Jali Organic Project の主要スタッフ4 名を日本へ招いた。実際の日本市場や製造現場をその目で見、肌で感じてもらうためだ。輸入食品店でのヒアリング、百貨店から専門店、スーパーマーケットまで可能な限り見て回り、日本市場の食料品のクオリティの高さを実感した。設備に頼らず基本的なことが徹底された食品工場を見学し、規制や手順、意識の重要さも実感できた。狭いスペースを最大限有効活用し、厳格な規律のもと効率的且つシステマティックに作業する日本の工場の作業風景に息を呑んでいたという方が正しいかもしれない。来日最大の目的であるインターナショナル・ギフトショーでは、Jali 村のパイナップルやバナナ、ジャックフルーツが日本最大の見本市でお披露目された。しかも彼らのブランディングとして。来場客の反応は予想を超え、人垣が出来、注文が相次いだ。
Moses は「unbelievable」「amazing」「fantastic」を連発し「君が何度も来てはあれやこれやと小煩く言っていた理由 がようやくわかったよ」と言った。こうして日本初のプロモーションは成功した。帰国後 40 日程は興奮してよく眠れなかったという。
The Fruits 2013~
遥かアフリカの孤島Jali村と、世界の東の果ての間に実ったものは…
プロジェクトに関わった生産者はある程度の現金収入を得ると、ある者は家畜を飼い、ある者は家を土づくりからレンガづくりへと変え、そうして一旦は満足してプロジェクトを離れるものが出てきた。しかし家財が収入を生み出すものではなく、働く場があることこそが大切であることに気付くとやがて戻ってきた。自給自足農業から農産加工業へと変身を遂げ、日本 市場に参入し、一定の評価を得たのち、恵まれた農業資源を活かし商品ライン ナップの拡充へと歩を進めた。収穫期の違うドライバナナ、ドライジャックフルーツ の商品化を果たした。村だけでは手に負えない場合は、アウトソーシングでカバーしチャンスを逃すことなくプロジェクトの幅を広げられると いうことも覚えた。途上国の村から村への技術移転。これは当初から我々が目標としていたことのひとつ。
工業先進国である我々の生産管理技術、衛生観念を会得 したのち、途上国の生産者間でのビジネス創出は正に「自走」と言える。これが Jali 村とJalamba 村の間で始まった。当然滑り出しは正確に技術が伝わっている のか否かはチェックする必要があるものの受け身の立場から転じて「主体的」に物事を動かし始めた事実は大きい。
そして、自走が始まった
遥かアフリカの孤島 Jali 村と世界の東の果て日本との間にまかれた種は、今確実に実を結びつつある。